【M&A小説】資本か、経営か Vol.2
⽬次
- 1. 著者
※お断り※ この小説では、当社社員は実在する人物ですが、その他の登場人物や企業名はすべて仮名あるいは架空です。
M&Aの現場で日々戦うM&Aコンサルタントの目を通して、資本と経営の間で揺れ動く売り手オーナーの機微、M&Aにおける買い手企業の意思決定の裏舞台、M&Aコンサルタントの仕事の醍醐味など、M&Aの現場のリアルを描写する連載小説。
角井の章 過去の苦い経験
資本か、経営か。
角井には、苦い経験があった。
数年前、まだM&Aコンサルタントとして駆け出しのころ、同じように資本と経営が分離した会社のM&Aを担当することになった。
その社長は、吉川と同じく会社の株を持っていない。しかし、会社を成長させた自分自身の経営者としての自負もあり、自他ともに認める経営者だった。ただ、株を持っていないというだけだ。
その会社が、今回と同じように第三者であるオーナー株主の要請により、売却を検討することになったのだ。M&A自体は相手も見つかり、順調に思えた。
しかしその社長が、急に自分と会うのを避けるようになっていった。
何か自分に非礼があったのかと、上司を連れて会ってほしいと訪問したが、それでも会ってもらえない。
何かがおかしい。
そう感じつつも、ただ理由がわからないまま日々が過ぎていく。
そんなある日、朝刊を目にした角井の目に飛び込んできたのは、その会社がMBOを行ったという記事だ。
何が起こったのか。
後からわかったことだが、その社長がM&Aの話を聞いた後にメガバンクに駆け込み、自分で会社を買い取るためのMBO資金を調達し、第三者株主と直接交渉してオーナーシップを勝ち取った、というのが経緯だった。
「角井さん、考えてもみてよ。M&Aで自分の意志とは関係ないところで会社を売られたら、ここまで会社を大きくした自分は何だったの?それに対する見返りは?」
ぐうの音も出なかった。
この一件が、今回は必ず吉川のためになるM&Aをやるんだ、とある意味リベンジを決意させた背景だった。
吉川の章 俺はどうなるの
「じゃあ俺のために何をやってくれるっていうの」
吉川の声が社長室に静かに響く。
クリニカル商事における社内コンペを勝ち抜いた角井が、吉川を初めて訪問してから2週間。
今日は具体的な話をしに吉川を訪問していた。吉川は前回よりも落ち着いている。
「俺も社員だったからわかる。クリニカルの戦略の意思決定に変更はない。だったら、俺のためにあんたなら何ができる?」
「私なら、当社なら、吉川パーツが今後成長できる可能性を持った相手を最大限、探せます。貴社の社員、そして吉川社長の意向を汲んでくれる相手を探せるのは、うちしかないと思っています」
吉川は今回のディールのキーマンだ。
平静を装ってはいるが、胸中はいかばかりか。それが角井には手に取るようにわかった。
自分の原体験が、吉川を不遇の境地に追いやってはならない、と叫ぶ。
「ぜひ、自分に相手探しを任せてほしいんです。どうせやるなら、社長だって最良の相手と組みたいでしょう」
角井は、あくまでも前向きだ。
経営者は前向きなことが大好きだし、なんでもプラス思考で考える。
そんな角井の前向きさと推進力に徐々にほだされていった吉川が最後に発した一言は、想定していたとはいえ、心底からの重い一言だった。
「俺はどうなるの?」
角井の章 自分にしかできない
吉川の重い一言を受けて、角井は決意を新たにする。
「吉川のことを一番に考えてくれる買い手を探そう」と。
あくまでもクリニカル商事を株主としてディールは進むが、吉川の功績を無視してはこの吉川パーツという会社の価値は語れない。
買い手に企業を紹介するときに使う、「企業概要書」を作りながら、さっそく匿名で相手を探し始める。
名前はわからなくてもビジネス自体に興味を持った相手が現れれば、吉川パーツは定性的な質問に対応しなければならない。角井はその橋渡しを行う。
通常、大企業のM&Aは売り手と買い手に別々のアドバイザーがつくFAスタイルのM&Aが主である。互いに弁護士がついて喧々囂々、条件交渉する場面は海外ドラマでもよく見られる場面だ。
しかし、角井が得意とするのは仲介スタイル。
仲介は、両社の情報を一度に同じ人間のフィルターを通して見ることができるため、双方に最大限メリットがある組み合わせを考えられる。仲介のメリットはこれに尽きる。
もちろん、仲介者であるM&Aコンサルタントには、高度な倫理観、公平性、リスク回避のための網羅的な知識量が問われる。
クリニカルも、これまで貢献してきた吉川と吉川パーツを、“切った張ったの交渉”を経た相手に譲り渡し、結果吉川が不遇を強いられるのは本意ではない。
クリニカル商事の遠山が、角井を社内コンペに呼んだ意図は、ここにあった。