【M&A小説】資本か、経営か Vol.3
⽬次
- 1. 著者
※お断り※ この小説では、当社社員は実在する人物ですが、その他の登場人物や企業名はすべて仮名あるいは架空です。
M&Aの現場で日々戦うM&Aコンサルタントの目を通して、資本と経営の間で揺れ動く売り手オーナーの機微、M&Aにおける買い手企業の意思決定の裏舞台、M&Aコンサルタントの仕事の醍醐味など、M&Aの現場のリアルを描写する連載小説。
冨士の章 相手探しは1日にしてならず
角井と同じく日本M&AセンターのM&Aコンサルタントの冨士は、角井により社内の情報システムにアップされた吉川パーツの情報を見つけるや、買い手探しを開始した。
社内でもめったに見ない、クリニカルグループの優良切り離し案件。
買い手がつかないはずがない。
優良会社をめぐって、社内における買い手探しの競争は熾烈だ。いかに売り手側に選ばれる買い手企業を提案できるか。これが、冨士自身の価値となる。
毎日、1000社を超える譲渡希望企業の相手を、350人を超える営業マンがやっきになって探している。
そのほうがよりよい相手が見つかる可能性が広がる、と考える会社の方針なのだが、一人の営業マンとしては、社内の競争に負けることもある。会社としてはよくできた仕組みだと思う反面、その競争に身を置くことの苦しさを感じることもある。
それを吹き飛ばしてくれるのは、やはりお客さんの心の機微に触れた時だ。
M&Aの過程で、いろんな苦労話を社長に聞く。
紆余曲折を経て成約し、最終契約調印式で社長が流す涙、支えてきた妻の想い。
いろんな事情で継げなかったものの、「自分が継いでいれば状況は違ったかもしれない」と、M&Aがなければ一生語らなかったであろう胸の内を、初めて口にする子供たち。
それらを目の前にして、自分がさらされる社内の競争など、なんの苦になろうか。
M&Aという仕事の真骨頂がここにある。
昨年、相手探しにAI(人工知能)が導入された。これまで冨士たちプロが積み上げてきた相手探しのノウハウを学習させたのだという。
ヒューマンの極致だと思っていたM&Aの世界にも、ついにITの波が入ってきたのだ、と経験を重ねた今、感慨深い。
冨士と角井の章 9社ビット
冨士が考えた吉川パーツの買い手候補は、清原メディカル。
東証2部に上場する、大阪の会社だ。医療機器の輸入販売からスタートし、幅広い製品を取り扱っているが、自社開発の製品がないことが課題だった。
清原メディカルは、吉川パーツの独自部品の開発とその製品の販売網に興味を示したのだ。
その他の企業も含め、結果社内で9社の買い手候補が現れ、入札案件となった。
これほどの数の入札は、社内でも過去例を見ない。
クリニカルブランドをめぐり、9社から5社、5社から1社に絞るビット(入札)が2段階で行われることになった。
「角井さん、僕は絶対清原メディカルがいいと思うんです」
社内入札なので、どの会社が売り手にとって一番メリットがあるかどうかは、金額だけで決まらない。買い手担当者の、アピール合戦の始まりである。
売り手担当である角井には、どれだけその相手とのシナジー(M&A後の相乗効果)を考え抜いて顧客に提案できているのか、が問われる。
清原メディカルの魅力を知ってもらうために、冨士はまず角井を味方につける必要があるのだ。
「まぎれもなく吉川パーツの開発力は、自社製品を持たない清原メディカルがぜひとも取り込みたい事業ですし、逆に販売網は格段にレベルが違う規模です」
「でも販売網だけではね。研究開発に対する投資コストに対する理解は前向きなのかな」
「すぐ、調べて回答します!」
こうしたやり取りが、ビット期間中すべての買い手担当者と角井、吉川パーツの間で続くのだ。
角井の章 企業概要書ってなんですか
時は少し戻って、角井は吉川パーツの「企業概要書」の最終仕上げをしていた。
この概要書の作成こそ、実はM&Aの最初のヤマとなるのだが、意外と重要性が認識されていない。
この概要書を買い手候補が吟味し、興味を持つかどうかが決まる。
アウトプットに特色が出せる、M&Aコンサルタントとしての腕の見せ所だ。
当然、最初に長い時間をかけて社長インタビューを行い、財務・法務分析、ビジネス分析を行って、業界の状況やその中における立ち位置など、強み弱みも含めてあらゆる面から見た概要をまとめる。どんなに急いでも2週間~1か月はかかる、膨大な作業だ。
毎回この作業を終えると、角井はその社長と同士になった気がする。
創業の苦労、実は家族や社員には言っていないこと、すべてを打ち明け共有してもらうからだ。自分のことを理路整然と話してくれる社長は少数派で、多くの場合はいろんな思い出話に脱線しながら、「あのときはもうダメだと思った」という話をいくつも聞き、一つ一つ答えを出していく。
この、魂のこもった「企業概要書」を作らない仲介者は、もぐりとみていい。
結局、相手を探すことはできずに終わることがほとんどだ。
以前、他の仲介会社に頼んだがまったく相手が出てこない、ということで日本M&Aセンターの門をたたき、角井が担当した会社があった。話を聞くと、意外な事実が発覚した。
「経緯はわかりました。それでは、時間短縮のために前の仲介者が作られた企業概要書をいただけませんか?データがなければ紙でもかまいませんので」
「・・・企業概要書って何ですか?」
「えっ?? 企業概要書、ないんですか?」
いろんな仲介会社が台頭する今、コンサルタントの質を見極めるのは困難だ。
このような話は毎日のように聞く。今後、このような仲介者の質が向上し、業界品質が是正されていく世の中になってほしい、と角井は切に願う。